Copyright Yoshihiro IDE  LastUpdate 2000.Oct.21

介護保険法成立までの経過

 介護保険法は、「介護の社会化」という言葉のみが先走り、制度の内容、特に負担と給付の関係が、加入者となる国民に十分に情報提供がされないまま平成9年12月成立し、平成12年4月1日よりスタートしました。
 ここでは、介護保険法導入までの経過を振り返ってみます。

平成3年厚生省が、21世紀の高齢社会に対応するために、社会保障制度の総合的見直しを目的として設置した「社会保障将来委員会」が、公的介護保険制度の必要性について指摘。
平成6年「高齢者介護・自立支援システム研究会」が、社会保険方式に基礎を置いた介護システムについて提言。
平成7年「社会保障制度審議会」が、公的介護保険制度に触れ、要介護状態となった時に社会保険のシステムを利用して、サービス給付または現金給付、あるいは、それらを組み合わせた介護給付を行う制度を勧告。
平成8年4月22日社会保障制度審議会の勧告と並行したかたちで審議がスタートした老人保健福祉審議会は、「最終報告」を当時の菅直人厚生大臣に提出。同審議会での議論は大きく分かれ、介護保険の実施主体については、国と市町村の併記、加入者については、20歳以上と40歳以上の併記、現金給付についても、時限的にでも支給すべしと、支給すべきでないの両論紹介となっており、制度の根幹部分について見解が分裂。
 また、同審議会は、審議内容を国民に情報提供して、国民の理解と喚起を催す十分な期間を置くように強く求め、4月23日、新聞各紙は、大きくこのことを報道。各紙の論調も、導入には相当の時間を要するだろうと指摘。
平成8年6月政府は、老人保健福祉審議会の意見を尊重することなく、保険の実施主体は市町村、加入者は40歳以上、現金給付はしない、という介護保険制度案大網(政府大綱といわれている)を示し、10月には、自・社・さきがけ3党合意が成立。
 この合意では老人保健福祉審議会が求めた、国民への十分な情報提供や実施主体となる区市町村との対等で十分な協議もなく、また、地方分権に逆行する中央集権的プロセスの中で公的介護保険制度導入への道筋がつけられ、現行制度の抱える問題点の多くが、この時点から発生。
平成8年11月29日第139回臨時国会で「介護保険関連三法案」が国会に提出され、衆議院では16本、参議院においても19本の付帯決議をつけて12月に可決し、「介護保険関連三法案」が成立。しかし、法律の中には、加入者が新たに負担をする保険料も、加入者が受けられる給付も明記されず、それらはすべて法成立後に、296もの政省令で定めることになった。国民年金法以来、40年ぶりの社会保障制度の大改革といわれる介護保険法が、国民年金法と違って、負担と給付の関係を法律ではなく、政省令で定めることになったのは、その後の準備段階での混乱のもととなっただけでなく、立法権を有する国会が、行政府に自らの権限をゆだねるという、法制定の基本問題をも派生させる結果に。

 「公的介護保険法」は平成9年12月、自民党・社会党・さきがけの3党連立政権が、公明党などの反対を押し切って成立させたものです。
 公明党は、@法律の条文に明記すべき保険料などを296にものぼる政省令に委ねるなど法的欠陥があること、A介護基盤整備の遅れによる「保険あってサービス無し」の懸念があること、B保険料負担が重くなる恐れがあること、C現行福祉サービスとの整合性などの問題点を指摘し、時期早尚であると反対しました。
 当時マスコミも「欠陥法、見切り発車、スタート前でも法改正に取り組むべきだ」(朝日97・12・10)、「制度がスタートする前からこれほど評判の悪い法案も珍しいだろう。制度に不備や欠陥があるとしても、国・自治体は、2000年に向けて走りながら改善するしかない」(読売97・12・3)などと、厳しい論調で批判を加えていました。
 介護保険法の成立を指揮したのは、現民主党の菅直人氏(当時の厚生大臣)。後任が小泉純一郎氏。当時の責任者の責任が問われるところです。


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