アメリカ連邦最高裁判所判例に見る「信教の自由」と「政教分離」

マックダニエル判決(1978年)の考察

創価大学助教授:塩津 徹


塩津 徹:1948年静岡県生まれ。早稲田大学法学部、同大学大学院政治学研究科単位取得。
創価大学比較文化研究所助教授。比較憲法専攻。著書に『信教の自由を考える』。

◇テネシー州州法による聖職者の議員資格の否定は、連邦憲法の「信教の自由」「国教禁止条項」「平等保障」に反する。

 宗教者の政治活動が日本国憲法の「政教分離原則」に反するものでないことは、憲法解釈上、憲法制定時の国務大臣の発言、歴代内閣法制局長官の見解、そして憲法学の通説からも明白である。にもかかわらず、一部与党議員の中からは憲法解釈の変更と宗教者の政治活動を制限する法律制定を求める声も聞かれる。

 民主政治の基本は、憲法の枠の中で政策を議論し、コンセンサス(合意)を形成することであって、議員の数を頼りに憲法解釈を強引に曲げ、違憲の恐れが極めて強い法律を制定することなど許されないのである。

 ところで、宗教者の政治活動を制限する見解には、「信教の自由」「政教分離原則」についての誤った理解があることはいうまでもないが、ここでは、改めてそのことをアメリカ憲法の事例から検証してみる。特に、アメリカ連邦最高裁の判例理論は、わが国において、学説のみならす、裁判所の判断にも多大な影響を与えているからである。

 もっともアメリカ連邦最高裁でも直接、宗教者の政治活動の憲法上の当否が争われた事例はない。しかし、一九七ハ年の「マックダニエル事件」判決は、事件自体は聖職者の議員資格という限定された問題であったが、宗教者の政治活動の問題にも言及しており、その点が関心を持たれるゆえんである。なかでも、本事件におけるテネシー州最高裁と連邦最高裁の結論および論理構成の相違に注目してみたい。

 事件は、テネシー州議会が聖職者の議員資格を否定する州法を制定したことが発端となった。そこで、一人の立候補者が州法を根拠に、「競争相手が聖職者であって議員資格がない」との確認を裁判所に求めたのである。

 さて、テネシー州最高裁は、州法による聖職者の議員資格の否定は、連邦憲法の「信教の自由」、「国教禁止条項(わが国の政教分離原則)」に反しないと判示した。

 主な理由は、第一に、たとえ聖職者の議員資格を否定しても、それは宗教的「信念」ではなく宗教的「行為」に負担を課すものであって、その意味では「信教の自由」を侵害しない。第二に、聖職者は公職に選任されれば、必ず自らの宗派の利益、他宗派の不利益の促進のために行動する。したがって、それを抑制することが、「国教禁止条項」の目的である、としたのである。

 しかし、連邦最高裁は、それとは逆に、先の州法は連邦憲法の「信教の自由」、「国教禁止条項」、そして「平等保障」に反すると、テネシー州最高裁の判決を破棄(はき)、差し戻しを判示した。

 まず、運邦最高裁の法廷意見は、テネシー州最高裁の第一の理由に対して、一般市民が有する公職就任の資格を、聖識者を理由に否定することは、聖識者に聖職か公職かの選択を迫ることになる。そして、信念から発する行為であれば、宗教的行為を制限すること自体、宗教的信念を制限することになりうると「信念」と「行為」の一斉論を批判する。以上のことから聖職者の公職就任禁止は「信教の自由」を侵害するとしたのである。

 なお、この二分論の否定にあたって、一九七二年の「ヨーダ事件」の連邦最高裁判決が引用されているが、事件は、ある宗派に属する親が、義務教育年限に満たないこどもの通学を宗教的理由から拒否し、州がそれに対して親に罰金を科したことに始まった。

 連邦最高裁は、州が宗教的信念を貫けば罰金、罰金を免れるためには宗教的信念を捨てるという選択をこの信者に迫ることは「信教の自由」の侵害になると判示した。重要なのはここで示された法理論である。もし、宗教的信念に基づいた行為を制限する必要があるとしたら、それを正当化しうる「やむにやまれぬ利益」があることを州が証明しなければならないとして、州に挙証(きょしょう)責任を厳格に課したことである。

 次に、聖職者が公職につけば宗派的利益のために行動するというテネシー州最高裁の第二の論点について、法廷意見は聖職者を聖職者ではない人と比較しても、公務において中立であるべきという公職就任時の宣誓、そして「国教禁止条項」が求めることに注意を払わなかったことはないと判断。つまり、聖職者が宗派の利益のために行動するという確かな事実も証明されていない、としているのである。

◇ブレナン裁判官の同意意見

  1. 宗教者の活動を宗教者以外の活動と差別をつけてはいけない。
  2. 「国教禁止条項(政教分離原則)」の目的は政府の宗教への干渉を防ぐこと。
  3. 国家による規制を安易に行うのではなく、社会での自由な論議、判断をゆだねるべき

 

 そして、次にあげる本判例のブレナン裁判官の同意意見は、結論は法廷意見と同じであるが、論理構成が異なる。本件を聖職者の公職就任禁止の問題に限定せず、宗教者の政治活動の問題へと広げているのであって、貴重な示唆を含んでいるのである。

 ブレナン裁判官の意見の論点は、第一に宗教者の活動を、宗教者以外の活動と差別してはならないということである。一九七〇年の「ウォルツ事件」で連邦最高裁が、教会は他の世俗団体、私人と同様な権利を有するとしたことを引用し、宗教者の議論、結社、政治参加について、宗教者以外の一般の人々よりも低い扱いをすることは許されないと、差別の禁止を述べている。

 そして、第二には、そもそも「国教禁止条項」の目的は、政府の宗教への干渉を防ぐことであって、その逆に、宗教者が公的な生活に関(かか)わることを抑制することではないと明言する。むしろ、宗教者が公的な生活に関わってきた良さ例として、教会や宗教団・体が奴隷制、賭博、戦争、禁酒の問題に政治的影響力を行使してきたことをあげ、そのような影響力の行使を疑い、弊害(へいがい)であるとすることは「信教の自由」「表現の自由」を侵害するとしたのである。

 第三には、テネシー州最高裁のいう宗派的利益の問題への対応である。ブレナン裁判官は、もし宗派的利益を政治過程に反映させようとする「宗教的熱狂者」がいたとしても、国家、の規制を安易に行うのではなく、とりあえずは彼らの思想を「思想の自由市場」、つまり社会の中での自由な議論、判断に妻(ゆだ)ねるべきであるとする。

 そこで、「宗教的熱狂者」の主張を認めたくないならば、選挙において投票しなければよいという。ここには、宗教だけではなく様々な思想についての判断は、「表現の自由し、取捨選択の機会を保証し、国家はできる限り干渉しないというアメリカのリベラリスム(自由主義)の伝統が見てとれる。

 以上、「マックダニエル事件」での連邦最高裁の法廷意見、ブレナン裁判官の同意意見の要点を見てきたが、次にわが国の与党の論理と照応させながら、改めて連邦最高裁判決の意義を再確認しておきたい。

 それは、第一に「信教の自由」の最大限の尊重である。テネシー州最高裁が宗教を単純に「信念」と「行為」に二分して、信念という内心に関わる面は制限が許されないが、行為という他者と関わる面は公益のために制限が許されるとしたことは危険な論理である。

 なぜなら、このような二分論は、宗教は内心の問題のみに専念すべきであり、政治に関わるなどの行為は制限を受けて当然という論理に容易に結びつきやすいからである。とりわけ、わが国のように、宗教は精神的なものであるとか、来世の問題であって、社会の現実に関わるものではないとの宗教観が根強い社会においてはそうである。

 もちろん、宗教者がそのような教義を持つことは自由であるが、ただし、国家が権力によってそれを強制することは許されない。なぜなら、宗教の中には宗教的信念に基づいて社会変革を志向する宗教も存在し、これも等しく憲法の保障するところである。

 そして、「信教の自由」は、内心のみならず、社会に関わる「表現の自由」「結社の自由」も含まれとするのが、わが国およびアメリカの憲法学の常識であるからである。

 連邦最高裁もそれゆえに、「国教禁止条項」を理由に「信教の自由」を制限する必要がある場合も、州(国家)に人権を制限せざるを得ない「やむにやまれぬ利益」の証明を課すというように、きわめて厳格に限定する一方で、「信教の自由」を最大限に尊重していることに注目したい。

◇本末転倒した一部自民党議員の俗見・・・合理的根拠・学問的常識の欠如

 ところが、わが国の場合は、一部与党議員の議論はそれとは対照的である。要するに、「政教分離原則」を国家の宗教に対する中立性という学問的常識によらず、もっぱら宗教と政治の相互不干渉という俗見(ぞっけん)による解釈で大上段(だいじょうたん)に構えている。

 その一方で、宗教者の政治活動という「信教の自由」に含まれることがらに対しては、何ら合理的根拠も、つまり「やむにやまれぬ利益」の証明もせずに安易に制限しようとしているのである。

 本来、「信教の自由」と「政教分離原則」の関係は「目的」と「手段」の関係にあることを考えれば、「信教の自由」は最大限に尊重されなければならず、その点、一部与党議員の議論は本末転倒(ほんまつてんとう)であるといわざるをえない。

 第二に、宗教者に対する「平等」の扱いである。連邦最高裁の判決では、宗教者だけが特定の利益のために公権力を行使するという偏見(へんけん)は否定され、また宗教者だけを議論、結社、政治活動などの面で差別することも批判されている。

 言いかえれば、なぜそのような差別をするのか根拠かないということである。ハーバード大学のトライブ教授も指摘しているように、マルクス主義者、環境保護を主張する人々は、宗教と同じく思想を掲げているのに政治活動の制限を受けず、なぜ宗教者だけが政治活動の制限をされるのか、合理的な理由を見いだせないのである。

 そして、わが国の場合は、それ以上に諸思想と比較して、民衆の生活の指針となってきた宗教を一段と低く見る風潮が、これに拍車をかけているとしか思えない。また、永らく宗教を政治支配の道具としてきた歴史を背景に、政治家の中には宗教への侮蔑(ぶべつ)観さえある。いずれにせよ、宗教者だけの政治活動を制限することは、宗教に対する不当な差別であって、憲法の平等保障に反する。

 第三に、市民の自由な意見表明の保障である。ブレナン裁判宮の「思想の自由市場」のように、思想は市民の自由な選択にゆだね、たとえ思想が政治的行為となって表現される場合も、投票にゆだねるべきである。

 ところが、わが国の場合は、選挙で負けた腹いせとばかりに、法律による政治活動の制限という権力的手段をとろうとすることに大きな相違がある。与党の中には、こともあろうに権力を誇示して、言うことを聞かない相手に制裁をちらつかせる議員もいるが、あくまでも言論と選挙によって政党の優劣を争うべきであることは当然である。

 また、この点、社民党(旧社会党)の行動にも不可解なものを感じる。旧社会党の有力支持団体である公務員の労働組合は、国家公務員法、人事院規則等で、政治活動を大幅に制限されている。多くの憲法学者は人権保障の観点から、公務員の政治活動に対する包括的な制限は合理的な根拠を欠くと批判し、社民党も学界の指摘を頼りにその不当性を声高(こわたか)に主張していたはずである。

 ところが、政権政党になって、こんどは政治活動の自由を制限する側に回ってしまうようでは、かつての主張は所詮、党利であったのかという疑問がもたれよう。

 民主主義は、初めから市民の意思を「べからず」で制限することではなく、宗教等の様々な思想、社会的立場にある人々の自由な意見表明、及び平等な政治参加を保障されてこそ、多様性と活性化がもたらされるのである。

 わが国の場合は、ともすると権力的規制が優先され、市民的自由がないがしろにされる傾向があるが、いずれにせよ、わが国だけでなくアメリカの例を見ても、宗教者の政治活動の間題については、「信教の自由」、そして「表現の自由」「結社の自由」という人権保障を基本に考えるべきであって、党利党略で論ずべきことからでないことは明らかなのである。

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