首相及び閣僚の靖国神社公式参拝には反対します 小泉純一郎首相は、首相就任以来、8月15日の終戦の日に靖国神社を参拝したいとの意向を再三表明していました。しかし、内外の参拝に反対する声に押し切られる形で、15日の参拝を断念し、2日前倒しの形で8月13日に靖国神社を参拝しました。(靖国神社を訪問した小泉純一郎首相の8・13談話・全文)
13日の小泉首相の参拝は、憲法違反との指摘を避けるために、神道の独特な参拝形式を排除するやり方で行われました。すなわち、玉串料を公費から支出することなしに、ポケットマネーで献花料を支払い、本殿の両脇に花を供えました。さらに、二拝二拍手一拝(2回お辞儀をし、2回柏手を打つ、さらに一礼する)の形式をとらずに、一礼のみを行ったとされます。なお、記帳は「内閣総理大臣小泉純一郎」としたためましたが、公式参拝か私的参拝かとの記者の質問には「公式とか私的とか、私はこだわらない。首相である小泉純一郎が心をこめて参拝した」(毎日新聞による報道)と語り、公式参拝か否かは明確にしませんでした。
私は、いかに日にちを替えようと、参拝の形式を替えようと、総理大臣の靖国神社参拝には、二つの大きな問題があると考えます。一つは、靖国神社の歴史認識、もう一つは、憲法の政教分離規定との関係です。この二つの点から、私は、首相及び閣僚の靖国神社への参拝は、認めるべきではないと主張します。
靖国神社の歴史認識 まず靖国神社の歴史認識の問題です。(靖国神社関連年表をまとめました)
靖国神社は、1869年(明治2年)、明治天皇の勅命によって創建された「東京招魂社」(とうきょう・しょうこん・しゃ)に起源があります。
当時、「東京招魂社」を設立した明治天皇の考えは、「幕末の護国殉難者を国としてお祀しよう」ということだったと言われています。靖国神社のスタートは、明治維新の「官軍」の戦没者を祀る施設であったわけです。このため、いわゆる信者がいるわけでもなく、神官はじめ従事者はすべて国家公務員でした。
その後、日本は「富国強兵」の名の下に軍国主義の道を歩み出し、1879年(明治12年)には、「東京招魂社」の名称を「靖国神社」と改称、外国との戦争・事変などで国のために亡くなった戦没者を、護国の英霊として合祀するようになりました。
靖国神社は、内務省所管の一般の神社とは違い、陸・海軍省所管となりました。文字通り、一般の神社とは性格を異にする、軍事的色彩の強い宗教施設でした。国民は死んで靖国神社に祭られることを最高の美徳と教えられ、信仰のいかんにかかわらず参拝を強制されたのです。
日本が敗戦した1945年(昭和20年)のポツダム宣言で、国家神道を切り離すべきであるという勧告があり、1946年(昭和21年)、靖国神社は、国家管理を離れて東京都知事の所管する一宗教法人となりました。
また、新憲法では、20条3項で「国及びその機関は、いかなる宗教活動もしてはならない」と規定され、国家による経済的・人的支援は厳しく禁止されました。
靖国神社の問題を一層複雑化したのは、A級戦犯の合祀問題によります。靖国神社は、戦後も引き続き、先の大戦における多数の戦没者を合祀していますが、1978年(昭和53年)にA級戦犯14人が合祀されました。この14人は戦没者ではなく、終戦直後の東京裁判で戦争責任を問われ死刑となった人たちです。靖国神社にいわゆる戦争犯罪者が、一緒に祀られるという結果になりました。極東軍事裁判は、勝者が敗者を裁くという、その国際法的合理性を疑問視する声もありますが、すくなくてもA級戦争犯罪人の東条英機元首相らは、戦争責任を逃れるものではありません。こうした人たちを「昭和の殉難者」として合祀したのです。
当然、周辺諸国から危惧の念が寄せられ、大問題になりました。
その理由は、例えば、中国は、日中平和友好条約を結ぶ時に、巨額な戦争賠償を日本に請求しようと思えばできたのに、当時の周恩来総理の大英断で放棄しました。
その時、中国側は、この戦争は一部の軍国主義者が起こしたもので、加害者は一握りのA級戦犯であり、日本国民も中国と同様に被害者で、大戦によって極貧状態にある日本国民から巨額の戦争賠償を取ることは酷であると、賠償請求を放棄したわけです。
ところが、その日中両国に対する加害者であるA級戦犯を靖国神社へ合祀したということで、周辺諸国は、そういう人たちを敬い、戦前に回帰するんのではという脅威を感じているわけです。
それは現在も同じで、外交関係を考えると、こうした国際的な感情も配慮しなくてはいけません。「日本の内政問題に、中国や韓国、アジアの諸国が意見を差し挟むことはけしからん」との論調が見られますが、こうした歴史的背景や、国際関係を無視した一方的な見方に過ぎません。
また、こうした見方も出来ます。
靖国神社は、一連の経緯から、「天皇に命をささげた」が祀られる条件です。天皇の軍隊に歯向かった西南の役の西郷隆盛ら「賊軍の将」は祀られていません。もちろん、官軍と戦った幕府軍は当然のことです。
空襲や戦闘に巻き込まれて亡くなった一般国民も祀られていません。終戦後の混乱で、シベリアなどに抑留され異国の地でなくなった多数の同胞も祀られていません。
さらに、在日の外国人や強制的に連れてこられた外国人も祀られてはいないのです。
こうした靖国神社の設立やその経緯を深く検証するとき、その存在は非常に偏ったものであり、靖国神社に参拝することにより、「戦没者に対して、心を込めて敬意と感謝の誠(まこと)をささげたい」との小泉首相の目的が本当に達成できるのか、疑問が大きくなっていきます。
憲法の政教分離原則に抵触 次に、平和憲法との関係です。
首相や閣僚が靖国神社に公式参拝することは、憲法第20条と第89条が関係してきます。「信教の自由」を保障した憲法第20条の1項後段に、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とありますが、この部分の読み方は、1946年ならびに1947年(昭和21、22年)の憲法制定議会での金森徳次郎国務大臣の答弁以来、「国およびその機関は国権行使の場面において、宗教に介入、関与してはならない」という解釈で一貫しています。
また、憲法第20条3項には「国及びその機関は(中略)、いかなる宗教的活動もしてはならない」とし、さらに、第89条では「公金その他の公(おおやけ)の財産は、宗教上の組織もしくは団体の使用、便益もしくは維持のため、(中略)これを支出し、又はその利用に供してはならない」と、徹底しています。
こうした憲法の規定は、ポツダム宣言を受けて、戦前の宗教政策(国家神道政策)を反省して、二度と国家が宗教を管理するようなことを行ってはならないということです。
首相、閣僚の靖国神社への公式参拝は、憲法第20条3項で禁止する「宗教的活動」に当たると考えられます。
ただし、この憲法の規定については最高裁の大法廷判決によって、「国は一切の宗教的活動を、無条件にしてはならないというものではない」ということが示されています。
1977年(昭和52年)の津地鎮祭訴訟の最高裁判決では、「国およびその機関は、一切の宗教的行為をしてはいけないという趣旨ではなく、その目的、そしてその与えた効果が宗教と深く関係しているかどうか、もし、それがわずかなものであれば、それは許される」としています。
これはアメリカの「目的・効果説」と呼ばれる判例を参考にしたものと言われていまが、当時は、有力学説も多くが強い反対説を唱えていました。
1985年(昭和60年)8月15日、中曽根康弘首相が公式参拝しましたが、その時の官房長官談話や、今年5月8日に出た公式参拝に関する政府答弁書も、この「目的・効果説」の考え方に立っています。
当初「目的・効果説」は、学説上反対論が多数を占めていたものの、その後の裁判例によって引用を重ねられ、わが国の判例法として徐々に確定され、支持されてきたという背景があります。
ここでは、戦没者の慰霊は国民が等しく認める心情であり、靖国神社という存在が戦没者を祀る中心的施設になっているので、国の代表として参拝してもいいのではないかというものです。つまり、戦没者を慰霊するという目的がはっきりしていて、参拝の仕方も、靖国神社が定めた参拝方式(神道の参拝様式)を取らず、玉ぐし料も公金から支出しないということであれば、憲法に違反することはないという考え方です。
もちろん、首相が個人で参拝することは、憲法第20条1項前段で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とされており、まったく問題はありません。
しかし、8月15日という靖国神社の慰霊祭、つまり特定の日に、首相が参拝することは、「個人としてであり、首相としてではない」と言ってもどうなのか。「目的・効果説」から、どこまで許されるのか、「許容される範囲の線引き」が非常に重要になります。
<注>「目的・効果学説」とは、(1)問題となった国家行為が、世俗的目的をもつものかどうか(2)その行為の主要な効果が、宗教を振興しまたは抑圧するものかどうか(3)その行為が、宗教との過度のかかわり合いを促すものかどうか、という3つの要件を個別に検討することによって、政教分離原則違反の有無を判断しようとするもの。(芦部信喜著「憲法新版」より)
宗教・宗派に偏らない国立墓地建設を
参考:靖国神社のホームページ
アメリカ・アーリントン国立墓地
1992年11月,井手よしひろ撮影
沖縄県糸満市摩文仁の「平和の礎(いしじ)」
千鳥が淵の戦没者墓地
靖国神社が持つ、戦前の軍国主義的拡張主義と切っても切り離すことができない歴史的意味と憲法の政教分離規定との軋轢とを考えれば、そこへの公式参拝をめぐって、毎年同じように議論が繰り返されるのは、大変心苦しいことです。 日本の発展は、戦没者の方々の尊い犠牲の上に成り立っているんだという気持ちに、異論がある国民は少ないと思います。
そうであるならば、「アメリカのアーリントン墓地やハワイのパンチボールのような無宗教で開放された明るい国立の墓地をつくるべきだ」と、私は主張します。
私も、1954年にパンチボールを、1992年にはアーリントン墓地を訪問しました。特にアーリントン墓地のジョン・F・ケネディー元大統領の墓所で、平和を祈る燈火を目の当たりしした時の、厳粛な気持ちは忘れられません。原色の紅葉の木々に囲まれた、国立墓地を思い出すと、日本にも是非このような施設がほしいと思うのは、私だけではないと思います。
日本にも、沖縄には「平和の礎(いしじ)」があります。私は、1999年春に訪れました。「平和の礎(いしじ)」は、沖縄戦終結50周年を記念して平成7年6月、糸満市摩文仁(まぶに)の沖縄県平和祈念公園内に建設された記念碑です。世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、非軍人の区別なく、沖縄戦などで死亡したすべての人々の氏名が御影石に刻銘されています。現在、日本人が22万あまりと、米国人1万4千人余り、韓国人263人、英国人82人、北朝鮮82人、台湾28人の合計約23万8千人の名が刻まれています。2000年の沖縄サミットでは、当時のクリントン米国大統領が献花し、話題となりました。
現在、千鳥ケ淵には戦没者墓苑があります。これよりも大規模で、戦没者のみならず、例えば、国連のPKOに参加して犠牲となった方、消防活動で亡くなられた消防士、殉職した警察官という人たちもなど、社会や人々のために尊い命を落とされた方々をも併せて追悼できる国立墓地を検討すべきだと思います。そこに、国民や、国の代表者が、年1回、敬意や感謝を捧げる日があってもいいのではないでしょうか。それが、終戦の日、8月15日であったとしても問題は起こらないような気がします。また、外国の首脳にも献花していただけるようにしてはどうでしょうか。
参考:アーリントン国立墓地のホームページ
参考:平和の礎(いしじ)のホームページ
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