国道6号・日立バイパス
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県道日立東海線(留大橋)が開通
2003年3月19日 日立と東海を直結する第3の橋が完成

日立東海線

 日立市と水戸方面を結ぶ幹線は、国道6号線の榊橋と245号線の久慈大橋の2本がありましたが、この二つの橋では、現在の交通量をさばくことは限界に達しています。特に、朝夕のラッシュは想像を絶するものがありました。

日立東海線  その解消のために、平成9年から県道として建設が始められていた日立東海線(留大橋)が2003年3月に開通しました。

 3月19日には、久慈川に架かる留大橋(全長655メートル・総工費60億円)の開通式が行われました。橋本昌知事らがテープカットの後、東海村立白方、石神両小学校の鼓笛隊計約120人を先頭にして、地域の住民ら約580人が渡り初めをしました。

 留大橋の開通によって、付近の渋滞が大幅に緩和されました。茨城県道路建設課は、開通前と後の2月26日と4月16日の午前7時半、JR大甕駅(日立市大みか町)から東海駅(東海村舟石川)間を車で走行、所要時間を測定しました。その結果、国道6号経由ルート(約11キロ)では、開通前が28分9秒だったのに対し開通後は22分3秒。245号経由のルート(約11キロ)も、31分8秒から21分48秒と、ともに短縮された。午前7時から12時間の交通量は6号が10.4%、245号が13.9%減少していたことが判明しました。

 また、留大橋の交通量調査でトラックなどの大型車の混入率が5%と国道の3分の1だったことも分かりました。こうした結果から、「留大橋の利用者の大半は、日立市南部地域と東海村市街地に住む人々で、生活道路として活用されている」と県では分析しています。

日立東海線
留大橋:日立側から東海側を望む

留大橋:クリックすると大きな写真を表示します
東海方面から見た留大橋の山側

建設のきっかけとなった痛ましい転落事故

97年当時の旧留橋  1997年4月7日、日立市久慈町在住の親子4人が、日立市留町の久慈川に架かる留橋から車ごと水中に落下し、全員死亡するという痛ましい事故が発生しました。

 当時、雨が激しく降っていたにもかかわらず、親子は渋滞をさけるため留め橋を通行して帰宅しようとした模様。午後6時頃東海方面から日立方面に通行し、あと30メートルで対岸に着く付近で運転を誤り、水中に転落しました。

 当時の留橋は、日立市が管理する木製の橋で、増水の際は通行止めとなる、いわゆる「もぐり橋」でした。地元の人は、事故の多いこの橋を「地獄橋」とも呼び、渋滞の抜け道や農作業ではなくてはならない橋ですが、その危険性を指摘していました。延長は117メートル、幅員は2.7メートルで、日立市と東海村が国から58.5メートルづつ占有許可を得て設置していました。両側に15センチ程度の車止めはあるが、欄干等の安全設備は一切ない橋でした。これまでもたびたび転落事故が繰り返されていました。1993年に中学生が自転車で通行中に転落して死亡。94年には、普通トラックが転落した事故が起こっていました。

 留大橋の完成は、こうした事故を無くす住民の悲願でもありました。

詳細情報:留橋から落下・一家4人水死

「留大橋」との名称に地域住民の心が結晶

留大橋のネームプレート  県道日立東海線の新橋の名称は「留大橋」と決定されました。

 この名称は、新橋の500m下流にあった「留橋」の名称を継承して命名されたものです。

 初代の「留橋」は、明治26年に架けられ、その歴史は久慈川下流域の橋の中ではもっとも古いものです。(榊橋は明治28年、竹瓦橋は明治31年に架けられました)

 地元住民からは、この歴史ある名称を是非新橋の名称として後世に残すよう強い要望が寄せられ、井手よしひろ県議らも早くから、繰り返し県当局に働きかけを行ってきました。「留大橋」との名称に地域住民の心が結晶しました。


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